「共謀罪」「怪文書」がまかり通るのはこの国の国民性?
「テロ等準備罪」あるいは「共謀罪」などと報道されてきましたが、法律の名前は二の次、三の次で大した問題ではありません。この国は法治国家である以上、国民の命や権利を守るために本当に必要な法律であれば、あってもいいでしょう。
ただ、もし本当に必要であるならば、もっと民主的に納得できる議論をしてほしかったと思います。あまりに党利党略が透けて見えて、こんないい加減なプロセスで法律が成立してしまうことが不思議でなりません。
報道を見ていて、必ずしも与党だけに責任があるとも思えません。野党も国民の信託を受けて選ばれた人たちである以上、もっと知恵を絞ってもらえないものでしょうか。決まりきったカードを順番に切っていく、単なるパフォーマンスにも見えてしまいます。
挙句の果てに「ひとり歩きした」と発言の責任を転嫁している怪文書問題、文科省のメールの再調査(与党は「追加調査」と言っていますが)の当然の結果については、大臣の会見を見ていて感想を述べる適切な言葉すら見つかりません。国会で答弁をしている幹部クラスの官僚は別として、おそらく調査対象となった文科省の職員の方々は、文科大臣や官房長官の会見をどのように見ていたのでしょうか。
政治家が、黒を白といってしまったばかりに、体裁を整えることに膨大な時間と人的なコストが費やされました。しかしこのコストはすべて私たちの税金です。なんとも呆れた話です。
残念ながら、この国の国民性・慣習・文化は、政治に「忖度」が入ることは必要悪と諦めなければならないのでしょうか。
大統領が変わり、なんだかんだといろいろありますが、アメリカはまだチェック機能が正常に機能しているのが少し羨ましく思えます。
※写真は建仁寺・法堂(京都市東山区)
2017年06月16日 08:36