自分たちのアピール、それとも国民のための議論かどちらですか?
ここ数日の報道、まるで昨年の森友や加計学園のときの言葉がデジャヴのように重なります。「処分した、見つからない」の後に、「出てきた、見つかった」といった言葉。今回も前提となっていた企業への調査資料が、当初はないといっていたものが、厚労省の地下から出てきたとの大臣の発言。一般的に考えて、ちょっと信じがたい発言です。最初の調査はなんだったのか、どうして組織の中で情報が共有されていないのか、そもそもなぜ「ない」と言っていたのか、何か隠したいことがあるのではないか、疑われて当然です。優秀とされる官僚の人達や、政権与党の大臣がこういった発言を繰り返すと、ますます政治が薄っぺらいものになってしまうのではないかと思います。
次に、ここぞとばかりに批判や撤回を求める野党。もちろん、労働者(=国民)にとって有益でない政策について、これを是正するために声を上げてもらえるのであればよいのですが、とにかく反対・撤回ではどうなんでしょう。資料には不備はあるものの、もしかしたら制度自体には影響がないのかもしれません。問題のない法案もあるかもしれません。すべてをちゃぶ台返しのごとく否定するのは、今回のことにかかわらず、どうかと思います。何かを否定したり反対するときには、それに代わる自分の意見、対案を出すのが一般的です。主だった野党のホームページを見ても、対案と思える記述はありません。ただ、反対・撤回だけが政治ではないと思うのですがどうでしょうか。
最後に、不備を認めつつも法案を通し、とりあえず施行を1年先送りにして沈静化をしようとする与党。もし、不備のあった資料が今回の法案の前提となっているのであれば、そのままというのでは少し無理があります。「違う資料でみんなで議論したけど、結論は間違っていない。結論が正しいなら問題ない」といっているようなもの、結論ありきになっています。結論あきりなら、資料も議論も要らないことになってしまいます。多くの国民の働き方に影響を及ぼす法案が、こんないい加減なことでよいのか、大きな疑問符が付いてしまいます。
批判と形だけの謝罪に貴重な時間と税金を費やすのであれば、最新の調査結果を基に、有意義な議論を始めるべく、「リセット」をしてほしいのですが。
※写真は真如堂(京都市左京区)
2018年02月24日 10:26